1941年 8月のこと

1941年8月のこと。首相に直属していた総力戦研究所という組織が、米国と戦争すれば日本は必ず負ける、とする分析を内閣に伝えた。これに対し東条英機陸送は、『戦争というものは計画通りにいかない』とコメントしたそうだ(猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」)。

 やがて東條は首相になり、その年の内に日本が対米開戦に踏み切ったことは周知の通り。そして戦局は、大筋のところ総力戦研究所の予測をなぞっていった。浮かび上がるのは、あのころ日本には優れた分析能力を持った人材がいたことだ。と同時に、優れた人材や分析を生かせない、情けない指導者たちがいたことも。

 日米開戦の現場となったハワイの真珠湾を、安倍晋三首相が訪れた。犠牲になった人たちをいたむ慰霊の旅という。かつての敵同士が恩讐を超えて強固な同盟関係を築いたとアピールする、和解の旅でもあるという。75年前に開戦を決めた詔書に署名した閣僚のひとりは、首相の祖父にあたる。それを思えば、感慨は深い。

 冷めた目でみると、かつての指導部がおかした過ちの後始末といえる。実際のところ、彼らが残したツケを戦後の日本は払い続けてきた。アジアの国々から日本に向けられている厳しい視線も、そんなツケの一つだろう。それは容易には消えそうもない。これかれも後始末は続く。そんな覚悟をあらたにする年の瀬となった。

日本経済新聞 春秋

  2016.12.29