73年前の3月10日未明。3.10も忘れてはいけない日ですね‼

*昭和20(1945)年3月10日 数時間で10万人が犠牲となる凄まじい空襲の惨状

【東京大空襲】

 私の母親も当時14歳、火の海を家族で逃げ歩く。下町の江東区立第三砂町小学校付近から亀戸駅を通り荒川に架かる千住新橋を渡り東武鉄道西新井駅まで夜中から歩き続け昼頃に電車に乗り祖父の実家の春日部市増戸(浄泉寺)までたどり着く。途中焼き焦げて死んでいる人も相当見たそうです。惨い話です。

 

『春 秋』           2018/3/9 付情報元 日本経済新聞 朝刊 

 見ると千住から下谷、本郷、神田、日本橋の方から、深川城東方面も四方一面の火の海である――。73年前の3月10日未明。後に書家となる井上有一は東京大空襲の惨状を墨絵と文章でこう残した。当時は下町にある小学校の若き先生で、宿直中に屋上へ駆けたという。

▼グアム、サイパンなどマリアナ諸島はすでに米軍の手中にあり、そこから飛び立つ爆撃機B29に首都をはじめ全土が狙われた。発火性の薬剤を詰めた焼(しょう)夷(い)弾の猛火は、つむじ風となって道を走り抜ける。数時間で10万人が犠牲となったといわれる。井上本人は階段裏にある倉に身をひそめ、炎熱に耐えて一命をとりとめた。

▼「倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし」。井上が震えたむごたらしい無差別爆撃だが、庶民の戦意を奪うほか、もうひとつの戦略もあった。米軍の司令官ルメイ少将は「日本の工業は数千の下請け零細業者に支えられている」と知っていた。これを一掃すべく、焼夷弾で夜間、低空からの攻撃を選んだという。

▼「私は民間人を殺していたのではない。軍需工業を破壊していたのだ」。ルメイの言葉と伝わる。国レベルの戦いの論理には罪なき人々の命の尊さは入り込むすきがないようだ。各地で市民に累が及ぶ紛争は絶えず、芽も消えない。私たちはこの種の野蛮な理屈の呪縛から自由になれただろうか。顧みるのが怖い気もする。