北海道地震 犠牲者41人に、土砂崩れの厚真町に集中 

                          2018/9/10 21:35 日本経済新聞

 平成30年北海道胆振(いぶり)東部地震

〇 9月6日03時07分に北海道胆振(いぶり)地方中東部の深さ約35㎞でマグニチュード(M)6.7(暫定値)の地震が発生した。この地震により胆振地方で最大震度7を観測し、被害を伴った。この地震の発生機構は東北東ー西南西方向に圧力軸を持つ逆断層で、地殻内で発生した地震である。 

北海道で震度7を観測した地震で、道のまとめによる犠牲者数は10日、5市町で計41人となった。厚真町で10日未明に安否不明だった最後の1人が発見され死亡が確認された。また道は10日夜、苫小牧市の50代の男性が地震により死亡したと新たに確認したことを明らかにした。

総務省消防庁などによると、震度7を観測した厚真町の死者は36人。同町では吉野地区を中心に大規模な土砂崩れが発生し、19棟が全壊。犠牲者の大半は押しつぶされた家屋から見つかった。

 苫小牧市で新たに犠牲者と確認された男性は本の下敷きになっていた。同市の死者数は計2人になった。震度6強を観測したむかわ町では男性がタンスの下敷きになって死亡。新ひだか町と札幌市でも各1人が亡くなった。

危機管理の欠如、阪神教訓に抜本改革

大災害を生きる(2)

                 2018年(平成30年)9月8日(土曜日)日本経済新聞

 平成に入ってから何故か!? 大災害が多いですね‼

 

 国民の命と生活を守る――。それは国や自治体が担うべき根源的で最優先の仕事のはずだ。1995年の阪神大震災で危機管理の欠如を自覚した政府は、大災害などに対する初動対応の抜本的な改善に取り組んだ。それでも2011年の東日本大震災では様々な「想定外」に直面し、災害大国としての試行錯誤はいまも続いている。

 

 95年1月17日の朝。戦後初の震度7を記録した阪神大震災の発生から数時間たっても、首相官邸や国会の緊張感はまだ乏しかった。村山富市首相や閣僚らは主にテレビ中継を通じて被害の状況を知った。自民党幹部は会合で「関西でなんか大きな地震があったらしいね」と人ごとのように談笑していた。

災害が一定規模を超えると停電と通信網の破壊で「ブラックアウト」と呼ばれる情報途絶が起きる。自衛隊は被災府県の知事からの災害派遣の要請を待ち、本格的な出動が大きく遅れた。倒壊家屋での救助が進まないうちに、漏電による火災が広がって追い打ちをかけた。死者の数は6434人。政府と与野党に絶望的な重い空気が漂った。

初動の遅れは誰の目にも明らかだった。政府は小里貞利地震対策相に災害復旧の陣頭指揮をとらせた。村山首相は震災の1年後に突如として内閣総辞職を表明。村山氏はのちに退陣理由の一つとして、地震対応への痛恨の思いを口にした。

「救えた命がもっとあった」。政治家も官僚もその教訓を胸に一体となって制度改革に乗り出した。まず緊急時に情報をどこに集約し、危機管理の専門要員をどうするか。

 96年に旧首相官邸の内閣危機管理センターが稼働し、98年に内閣法を一部改正して「内閣危機管理監」を創設した。2002年に新官邸の地下に危機管理センターが完成し、24時間体制を支える設備と人員が大幅に強化された。首相が指揮できなくなったり、官邸が使用不能になったりした場合の継承順位も定めた。

自衛隊法には実は制定当初から知事らの要請がなくても災害時に動き出せる「自主派遣」(第83条2項)の仕組みがあった。防衛省・自衛隊はその活動の基準をはっきりさせ、被災地の写真や映像を首相官邸などに伝送する装備を充実させた。

緊急時の各府省庁の動きは、03年11月に「緊急事態に対する政府の初動対処体制について」を閣議決定して明確にした。自然災害、原子力災害、大規模テロ、ハイジャックなどの対応をマニュアル化し、首相官邸に駆けつける「緊急参集チーム」の顔ぶれを事象ごとに定めた。

 11年3月の東日本大震災は、一連の制度見直しが終わった段階で起きた。直ちに自衛隊や海上保安庁などの航空機が離陸。被災地の状況だけでなく沖合から迫り来る大津波の映像も政府内ですぐに共有された。地道に取り組んできた建物や社会基盤の耐震化も効果が確認された。

だが大津波が「想定外」の規模で岩手、宮城、福島各県など沿岸部を襲い、甚大な被害が出た。自衛隊の派遣は1日最大で10万7千人規模に及び、米軍も救援に加わった。東京電力福島第1原子力発電所の重大事故で放射性物質が周辺地域に拡散し、警察や消防、自衛隊などが命懸けの作業を強いられた。

震災対応に携わった菅直人内閣の閣僚の一人は、後にこう振り返った。「あれだけの地震の揺れでも、人や建物の被害はかなり抑えられていた。津波と原発事故さえ無ければ結果は全く違っていた」。死者1万5896人、不明者2537人。福島県には原発事故による帰還困難区域がまだ広範囲に残っている。

 空前の震災対応でもたらされた被災者保護などの新たな教訓は、その後の対応に生かされた。16年4月の熊本地震で、安倍政権は最大2万6千人規模の自衛隊派遣を即決。水や食糧、衣料品は自治体の要請を待たない「プッシュ型」で被災地に送った。それでも緊急物資は県庁や市役所などに山積みになり、住民の手になかなか届かない「ラストワンマイル」の壁が立ちはだかった。

 高橋清孝内閣危機管理監は平成の時代に強化された災害対応について「当初は警察、消防、自衛隊、海保という実動の省庁が連携した救助活動に重点をおいた。熊本地震からは支援物資の供給、被災者への情報提供など全省庁を含めた取り組みが動き出しつつある」と評価する。

 一方でこうも強調した。「自然災害の対策は練度が増した。しかし首都直撃の大災害、大規模なサイバー攻撃、新型インフルエンザのパンデミック(大流行)などが起きれば、様々な事態を想定して準備しているとはいえ、対処が難しい」

危機管理に完成形はない。6日には北海道を震度7の揺れが襲い、広域停電が起きた。住民保護の観点で最も機能する自治体の規模は。危険地域の集団移転を進めるべきか。交流サイト(SNS)を緊急時の状況把握に生かせないか。取り組むべき課題は多い。(坂本英二)

 

 証言 折木良一・元自衛隊統合幕僚長が語る

 平成の時代は災害の数も規模も昭和と比べて大きくなった。阪神大震災をきっかけに防災訓練の頻度が増え、自衛隊は即応体制を考えた。ヘリコプターなど情報収集を強化するための装備が陸海空を含めて徐々に整備された。

自衛隊は東日本大震災で10万7千人体制を作り込み、統合任務部隊も初めて設けた。米軍は1万6千人規模で「トモダチ作戦」に立ち上がってくれた。初動は良かったが、組織を機能的にどう動かしていくかで戸惑いながら対応した。原発事故の対応を内側でやるとは想定しておらず、シビアだった。国は体制作りが遅く、米国との情報交換も問題があった。

阪神や東日本を経験してみて、災害派遣への取り組みが有事や紛争時に役に立つと思うようになった。国民の保護には国家レベルの意思決定や関係省庁、警察や消防、自治体との連携が必要となる。災害派遣にしっかり取り組むことで、防衛の任務にも資する。

自衛隊は平成になって海外任務が加わり、大規模災害にも対応して仕事を国民に認知してもらえた。自衛隊への評価や期待はありがたいが、これからは能力の限界も訴えていかねばならない。

東日本大震災では当時の北沢俊美防衛相に「自衛隊は10万人派遣して大丈夫か」と聞かれ、「防衛警備などを差し引くと12万~13万人が限界だと思います」と答えた。予想されている大地震が広域に起こったら、10万人体制でもどうしようもない部分が出てくる。

国全体で公助、自助、共助の考え方をもっと取り入れていくべきだ。首都直下地震や南海トラフ地震などは「有事」だと考えて準備していく必要がある。それでも計算通り、訓練通りとはいかない。何が起こるか分からない部分に対応していかねばならない。

 

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 内閣危機管理監

 阪神大震災や地下鉄サリン事件などを踏まえ、1998年に橋本内閣は内閣法を改正して「内閣危機管理監」を新設した。国家的な危機に際して寄せられる情報を集約。被害状況を踏まえて首相らに助言し、関係機関に指示を出す。各府省庁トップの事務次官より一段上の位置づけとした。大規模災害だけでなく、北朝鮮のミサイル発射や原発事故、ハイジャック事件、海外での邦人人質事件など様々な緊急事態に対応する。よほど重要な公務がなければ「JR山手線の外側には出ない」のが慣例となっている。初代の危機管理監には元警視総監の安藤忠夫氏が就いた。

 

 5強6弱

 阪神大震災で初動が大きく遅れた反省を踏まえ、政府は災害や事件が一定規模を超えれば関係機関が自動的に動き出す仕組みを作った。2003年に決めた初動対処体制実施細目は「東京23区内で震度5強以上、その他の地域で震度6弱以上の地震が発生した場合」に、関係機関の局長等が指示を待つことなく首相官邸の内閣危機管理センターに集まるよう定めている。警察や消防、自衛隊も直ちに情報収集と人命救助に出動し、その後の新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震、北海道地震などでも政府対応の基点となった。

 

 トモダチ作戦

米国は東日本大震災の発生を受け、空母ロナルド・レーガンや揚陸艦、海兵隊特殊部隊などによる大規模な被災地支援に乗り出した。同盟国への「トモダチ作戦」と名付け、1日最大で1万6千人の人員を投入。仙台空港の復旧、被災者の救援、学校の補修など活動は多岐にわたった。2015年の日米間の防衛協力指針(ガイドライン)の再改定では、大規模災害をめぐる協力を初めて明記した。16年の熊本地震では米海兵隊の新型輸送機MV22オスプレイを投入し、その後も災害復旧に積極的に協力している。

 

「防災省」構想

近年の大災害の頻発を受けて、自民党では災害対応を専門的に担う「防災省」の設立構想が浮かんでは消えている。現在任命されている小此木八郎防災相は国家公安委員長と兼任で、手足となって動くスタッフも限られている。石破茂元幹事長はかねて米国の災害対応で各機関の動員、調整を一手に引き受ける連邦緊急事態管理局(FEMA)のような専門機関を設けるべきだと提唱している。安倍政権は2015年に防災省構想について「必要性は見いだしがたい」との見解をまとめ、党内の賛同者はなお少数にとどまる。

 

 

 平成の30年はバブル経済の頂点からの転落の軌跡と重なる。一瞬のまばゆい放光と暗転、その後の年月を覆う長い影。平成経済は日本に何をもたらし、何を奪ったのか――。歴史に刻まれたバブルの足跡をたどり、見つめ直す。

  •  緩和と副作用、日銀板挟み 
  •  金融機関への配慮、月末議論 金利調整なら円高リスクも
2018/7/22付 情報元 日本経済新聞 朝刊 日銀の金融政策が伸びない物価のもとで、板挟みになっている。2%の物価安定目標は遠く、30~31日の金融政策決定会合では長引く緩和の副作用にどう配慮すべきかを検討する。金融機関の負担を無視できないためだが、金利の調整を視野にいれると円高を招きかねず、金融緩和の本来の目的であるデフレ脱却に逆風になる。終わりがみえない緩和は不安が尽きない。 市場関係者が注目する日銀の政策委員の発言に、最近ある単語が目立っている。「累積的」。布野幸利審議委員は6月の会見で金融機関の収益への影響をこう表現した。政井貴子審議委員も7月の会見で国債市場について、同じ単語を使った。

 

累積的な課題に

 

 

 金融緩和による低金利は銀行の収益力を奪い、長期金利が動かなければ国債ディーラーは仕事がない。緩和には一時的な副作用がつきものだが、日銀は経済を押し上げる効果が副作用を上回ると説明してきた。しかし異次元の金融緩和が始まって5年を過ぎ、積もる副作用を無視できなくなっている。

 累積的な課題を前に、日銀は30~31日に開く金融政策決定会合で副作用への配慮を検討する。現時点では会合の声明文に、今後の政策運営方針として示すのが有力な案だ。アルゼンチンで22日まで開かれる20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議から黒田東彦総裁が帰国する24日以降に最終調整する。

 副作用への軽減策の一つは、長期金利の誘導目標を将来、今のゼロ%程度から少し引き上げるか一定の幅を許容するなどで「柔軟化」する方針を示す案だ。金融機関の運用改善を狙う。国債や上場投資信託(ETF)の買い入れ手法も課題だ。

 しかし金利の調整は金融機関の運用に目配りする以上、今よりも金利が上がる方向に働く。為替相場は円高に振れる可能性がある。

 

 

物価は上向かず

 

 

 積もる課題を解決しようとすると、次の課題が待ち構える。今の副作用に対応すれば金利が上がって円高を招き、輸入品の値下がりなどを通じて物価に下押しの力がかかる。物価が上がらない中では金融の引き締めにつながり、景気を冷やす恐れもある。デフレ脱却から再び遠のきかねない。 そもそも日銀は2年前にマイナス金利を導入した直後、黒田総裁が「金融政策は金融機関のためにやるものではない」と語り、物価と経済底上げを優先する姿勢が強かった。それが変わってきたのは、足元で物価が伸びず、副作用を伴う緩和策を続けざるを得ないためだ。

 20日公表の6月の全国消費者物価指数(CPI)は値動きの激しい生鮮食品とエネルギーを除くと前年同月比0.2%の上昇にとどまり、3カ月続けて伸びが鈍った。今春の賃上げ効果が不発で、物価が上向かない。

 日銀は7月に改定する「経済・物価情勢の展望(展望リポート)」で、物価見通しを4月時点より下方修正する。2018年度は1.3%から1%程度に、19年度も1.8%から1%台半ばに下げる。2%は遠く、欧米の中銀のように金融政策を手じまいする「出口」に歩む選択はとれない。

 物価が上がらないからといって、追加緩和をすれば副作用が強まる。残された選択肢が現行の緩和をなるべく続けながら、金融機関の副作用を和らげる案だ。日銀は粘り強く2%を目指すが、この両立は極めて難しい課題になる。

 

 

 

 専門知識はあるも、常識に欠ける。 若者!?

 『共感力』は、ありますか!?

 

オウムを生んだ「社会の病」 心の弱さがリスクに

                  日経 2018(平成30)年 7月10日 13版 社会

 オウム事件の残像

 豊かになったはずの平成の日本社会で、犯罪史上類を見ない無差別テロ事件にまで突き進んだオウム真理教。教団による一連の事件があぶり出した社会の病とは何だったのか。その教訓は果たして生かされているのか。有識者に聞いた。

 

◇元外務省主任分析官の作家、佐藤優氏

 オウム真理教の標的は経済のグローバル化やバブル崩壊に伴うエリート層の若者の孤独感や将来不安だった。多くの若者が強固な思想的背景のないオウムに取り込まれ、平然と他者の命を奪う行為に手を染めた。

 人々の心の弱さや空白こそが現代社会の最大のリスクであり、高度経済成長の終わり、過度な個人主義といった変化に対応すべき社会・教育制度の失敗を如実に示したといえる。

1995年3月、地下鉄サリン事件で有毒ガスにより倒れ、路上で手当てを受ける乗客ら=東京都中央区築地(共同)
1995年3月、地下鉄サリン事件で有毒ガスにより倒れ、路上で手当てを受ける乗客ら=東京都中央区築地(共同)

 人々の心がもたらす社会不安とどう向き合うか。司法による究明が区切りを迎えたからこそ、我々は自らの手でオウム事件の究明を続けなければならない。

 

◇カルト教団を巡る小説「教団X」を書いた作家、中村文則氏

 

 地下鉄サリン事件を起こした教団を調べていくうちに、「普通の人たち」の集団であることを知って驚いた。

 社会で受け入れられていないと感じた人たちが、社会の常識とは異なるルールで支配される教団の中で居場所を見つけた。そんな普通の人たちが、過激な思想の中でより過激な意見を言ってみたら認められて教団に深入りし、衝撃的な事件につながった。

 殺人という犯罪は個人が起こすものと受け止められてきたが、オウム真理教による一連の事件は社会と隔絶された「集団」が歯止めなく暴走する恐ろしさを知らしめた。

 

◇日本文学研究者のロバート・キャンベル氏

 私が1985年に日本で生活を始めたのとオウム真理教が活動を開始した時期は重なる。テレビ番組に出たり空中浮遊を演じたりするなど、商業的で思想的に底が浅いと感じていたが、多くの人と同じように教団の抱える闇の部分は見えていなかった。

 高学歴の若者たちはなぜカルト教団に入信したのか。バブルで加速した消費社会の中、専門知識はあるが教養を欠いた若者たちが周囲に共感できる人を見いだせず、孤独を募らせていたことが背景にあったのだろう。

 90年代以降、医学を生命倫理の観点から考えるなど、1つの分野を多角的に捉える学際的な教育が広がった。他者の立場を想像できる「共感力」を身につけさせる重要性は認識されてきたが、まだ道半ばであり、努力を続ける必要がある。

 

「官から民へ」の挑戦小泉首相vs族議員

改革 光と影(6)

  21世紀に入っても日本経済は長期低迷にあえいでいた。そこに登場したのが「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政権だ。不良債権の抜本処理、そして郵政民営化。族議員との対決は電撃的な郵政解散で制したが、財政健全化などの課題はポスト平成の世へ先送りされた。 

 古い自民党をぶっ壊す」。2001年4月の自民党総裁選でそう叫んだ小泉純一郎氏の圧勝は一種のサプライズだった。若い頃から発信力は抜群だったが、政界では一言居士の印象が強かった。

小泉氏を首相の座に押し上げた原動力は、自民党の「古い体質」への世間の強い逆風だ。批判をかわすには清新な党の顔が必要だと多くの所属議員や党員が考えた。

政権発足後の小泉首相の国会答弁は熱気に包まれた。

「私の内閣の方針に反対する勢力は全て抵抗勢力だ」

「旧郵政省の訳の分からない論理は、小泉内閣では通用しない」

小泉首相が議場でまくし立てると与党議員は苦笑いし、むしろ野党席が拍手と歓声に包まれた。業界団体や所管官庁とタッグを組んで既得権益を守ってきた族議員は、自らの党のリーダーから「抵抗勢力」と名指しされた。

改革の舞台回しを担ったのが経済財政諮問会議だ。首相の懐刀である竹中平蔵経済財政相が議論を仕切り、民間議員が改革案を示して省庁の尻をたたく方式が定着した。与党議員は「民間人の竹中氏や有識者に政策を決める権限はない。これでは国会議員は不要だ」といきり立った。

小泉政権がまず対応を迫られたのは、金融機関の不良債権問題だった。バブル崩壊から10年たっても出口が見えず、日経平均株価は政権発足時の1万4000円前後からずるずると下落した。

02年9月の内閣改造で、首相は自民党内に更迭論が渦巻いていた竹中経財相に金融相を兼務させた。首相は後にこう語った。「早く辞めさせろという声があったから金融相を兼務させたんだ」

そこから1カ月で不良債権処理を加速する「金融再生プログラム(竹中プラン)」を発表。銀行への公的資金注入と一時国有化という「外科手術」の土台ができた。

小泉改革の転換点となったのは03年夏。りそなグループへの公的資金注入の決定などをきっかけに株価が反転し、景気の先行きに明るさが見え始めた。首相は6月に公式日程には載せない極秘の会合を招集した。

国会近くのホテル。地下の中華料理店にいったん入り、裏から抜ける「籠脱け」で上層階の部屋へ。首相と竹中氏のほか、4月に発足したばかりの日本郵政公社の生田正治総裁、日銀の福井俊彦総裁、そして政府系金融機関のトップらが顔をそろえた。

首相は生田総裁に言った。「あなたは最初で最後の公社総裁です」。初代総裁の任期は07年まで。郵政民営化の期限が初めて明らかになった。出席者の1人は「いよいよ内閣の命運をかけて踏み出すと分かって緊張した」と振り返る。法律を通すには急いでも2年かかる。そこから新組織の発足準備にさらに2年。決意表明はゴールと定める07年からの逆算だった。

小泉改革の目標は、官から民へ。成長力が低下した日本は非効率な「大きな政府」をいつまでも財政で賄えない。民間で出来ることは民間に任せ、競争を促進して経済を活性化する。その最大テーマが郵政民営化だ。郵便貯金を原資とした財政投融資、道路関係4公団や政府系金融機関などの特殊法人改革もその延長線上にあった。

首相の決意が嘘ではないことを与野党は05年8月に思い知る。強気の政権運営はついに自民党の一部の離反を招き、郵政民営化法案の採決で多くの造反議員が出た。衆院はどうにか可決したものの、参院で否決されてしまう。

首相は周囲の説得を振り切って即日、衆院解散・総選挙に打って出た。「国会は郵政民営化が必要ないとの判断を下した。本当に国民の皆さんがこの民営化が必要ないのか聞いてみたい」。解散直後の怒気をはらんだ記者会見は語り継がれている。

造反者の選挙区に対抗馬を次々に立てる非情さを見せつけ、結果は自民党の300議席近い大勝利。総選挙後の10月に郵政民営化法はあっけなく成立した。長年の政治目標を達成した首相は「政界の奇跡だね。山を越え谷を越え、一度は谷底に突き落とされたけど、国民が生き返らせてくれた」と語った。

5年半に及ぶ長期政権は、いくつかの難しい改革を成し遂げた。しかし小泉劇場の熱気は一気に冷め、後には社会保障制度の見直しや財政健全化といった国家的な課題が残された。ゆうちょ銀行は今も政府が過半を出資する日本郵政の子会社で、政府が間接的に所有する「国有民営」のままだ。小泉改革がやり残した仕事を引き継ぐ本格政権は現れていない。(坂本英二)

 

証言

竹中平蔵 元経済財政・金融相

 小泉内閣は不良債権問題と株価低迷に翻弄された。自民党の普通の力学では首相にならない小泉さんが引っ張りだされ、クライシス(危機)を乗り越えることを要請されていた。

改革には2通りある。一つは受け身の改革、もう一つは攻めの改革だ。前者の典型が不良債権処理で、後者が郵政民営化のような問題。政策で一番大事なのは手順だ。小泉政権はまず不良債権に対応し、経済危機を落ち着かせた。だから攻めの改革ができた。逆だったら失敗している。

小泉さんは非常に直感がよく、このままでは不良債権問題は解決しないと思った。金融庁は「十分な公的資金を注入した」と言っていたが、そうではないとマーケットの人はみんな分かっていた。

小泉政権の手法の特徴は、今までの審議会を使わなかった点だ。各省の審議会は利害調整の場であって専門家が意見を戦わせる場ではない。組織は過去の政策判断への無謬(むびゅう)性にとらわれる。郵政審議会や金融審議会は自己否定ができない。本気で改革しようと思ったら、通常の組織の外でやらないといけない。

 郵政民営化がうまくいった理由は、首相直属の準備室と担当大臣を置いたことに尽きる。でもその後の政権は、本格的な改革への取り組みをやめてしまっている。

小泉内閣はトップがいかに重要かを歴史に証明した政権だと思う。何を人に任せて、何を自分でやるか。改革はバトルだ。その場が経済財政諮問会議。あそこは奉行所のお白州で、官僚に洗脳された大臣に民間が中立的な案を挙げて戦い、首相がお裁きをする場だった。私は民間議員のペーパーは絶対に根回ししなかった。

 

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・経済財政諮問会議

橋本内閣の行政改革で設置が決まり、2001年1月の中央省庁再編に合わせて発足した。首相が議長を務め、議事進行役の経済財政相、経済閣僚、日銀総裁、民間有識者で構成する。事務局は内閣府に置く。予算編成や経済財政の基本方針、政権の重要課題などを企画立案する。

諮問会議を最も積極活用したのが小泉純一郎首相だ。高い内閣支持率を背景に郵政民営化や医療費の伸び抑制などの諸改革を進めた。近年は官僚主導が再び強まり、税制改正や規制緩和を含めて改革の推進役としての存在感が低下している。

・「人生いろいろ」

小泉純一郎首相は断定調の強気の発言が特徴で、なかでも2004年6月の国会答弁は波紋を広げた。落選中だった1970年代に勤務実態のない不動産会社の社員として厚生年金に加入していた問題を追及され、こう反論した。

「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ。家にいてもいい、海外旅行してもいいという会社もある。やましいことはない」。発言は政府の年金改革への有権者の不信感を増幅。04年7月の参院選で自民党が苦戦した原因の一つになった。

・新首相官邸

現在の首相官邸は2002年4月に完成し、小泉純一郎首相が最初の主となった。地上5階、地下1階と公表されており、分厚い防弾ガラスを使った透明感のある外観が特徴だ。延べ床面積は2万5千平方メートルで、1929年に建設された旧官邸の2.5倍の広さ。最新の免震構造を採用した。

旧官邸は戦前に2.26事件の襲撃現場にもなった。歴史的な建造物として保存するため南側に50メートルほど曳家し、新公邸として再整備された。官邸は仕事場、公邸は住居の位置づけだが、賓客をもてなす大客間や茶室も併設されている。

・道路公団民営化

高速道路の建設は日本道路公団、首都高速道路公団、阪神高速道路公団、本州四国連絡橋公団の4公団が担ってきた。建設資金は郵便貯金などを原資とする財政投融資から借り入れ、料金収入で債務を返済する仕組みだった。地方の要望で路線を次々に建設したため収益が悪化。一時は4公団合計で40兆円に上る債務を抱えていた。

小泉内閣は特殊法人改革の一環として、道路公団民営化関連法を2004年6月に成立させた。分割・民営化で05年10月に東日本、中日本、西日本、首都、阪神、本州四国連絡の6社が発足した。

 

  社員は悪くありません」1997年11月24日。自主廃業を決めた山一証券の野沢正平社長の号泣会見は、決して忘れられない平成史の風景だ。四大証券の一角の破綻は、日本経済が抱えた負の遺産の大きさを印象づけた。なぜ、山一はつぶれたのか。理由を解き明かすために時計の針を平成の始まりに戻す。89年12月29日、東京証券取引所。その年最後の取引の終値で、日経平均株価は3万8915円をつけた。今に至る日経平均の史上最高値だが、当時の市場関係者には単なる通過点だった。「株をまくらに寝正月」。兜町に飛び交ったざれ言が天下太平の雰囲気をよく示す。しかし、市場の内なる陶酔とは裏腹に、海外の視線は冷めていた。米欧の代表的な機関投資家はこの時期、日本への投資を抑え気味にした。グローバルな株式投資に30年余りたずさわってきた米キャピタル・グループのロバート・ラブレス副会長は「日本株は途方もなく割高だった」とふり返る。例えば株価が1株利益の何倍に相当するかを示す株価収益率(PER)を見ると、89年の日本市場は平均で60倍超。対照的に欧米は10倍台だった。異常な株価を支えた要因はいくつか挙げられる。まず、土地の値上がり期待だ。「企業が保有する不動産の含み益まで考慮した実質一株純資産から見れば、日本の株価は割高ではない」。日本証券経済研究所の「日本の株価水準研究グループ」がこんな報告書を発表したのは、88年の秋。提示された「Qレシオ」という考えは株高を正当化する理論として人気を博した。また、株式の所有構造も株価形成に影響を及ぼした。89年当時の日本市場は、自由に取引される株式が全体の約3割と言われた。企業と企業、企業と銀行が株式を相互保有する「持ち合い」が広がったためだ。さらに、88年に日本市場で始まった株価指数先物の取引が89年には外資系証券を中心に活発になり、株価を押し上げた。先物を売って現物株を買う裁定取引の仕組みを理解する日本の市場関係者は、まだ多くはなかった。地価上昇、持ち合い、そして先物取引が共鳴するように醸成した株高。それが日本企業をM&A(合併・買収)に駆り立てた。「米国の魂を買った」と称されたソニーのコロンビア・ピクチャーズ買収や三菱地所のロックフェラーセンター買収は、時代の高揚感を抜きには語れない。旺盛なエクイティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)もバブル期の企業行動を特徴づける。89年のエクイティファイナンス総額は24兆8000億円と、過去最高だった88年をさらに40%強上回った。ファイナンス資金の多くは財テクに回った。90年以降の株価下落で企業の財務が大きく傷み、損失補填などの事件に結びついたのは、歴史の示すところだ。ファイナンスを仕切る証券会社を主幹事という。銀行でいうメインバンクが証券では主幹事だ。調達資金による財テクや増加株式の持ち合いまで指南するなど、当時の企業と主幹事はもたれ合いの関係にあった。この分野で強かったのが山一だ。当時の四大証券には、収益力や規模などの面で「野村、大和、日興、山一」という序列が存在した。しかし、主幹事を務める企業数だけを比べると、山一は野村に次ぐ2位。同社にとって「法人の山一」は死守すべき金看板であり、それが大企業とのなれ合いが続く要因ともなった。バブルが崩壊し、収益力の強い野村などは企業と一時的に対立しても、損失補填などの癒着関係を切ろうと努めた。山一だけが古い関係を引きずり、財テクの損失を「飛ばし」と呼ばれる簿外取引で隠さざるを得なかった。「株価さえ戻れば、何とかなる」。山一首脳がくり返し語った言葉が、今も耳に残る。しかし、その時は訪れず、飛ばしの行きづまりとともに経営は破綻した。山一のような「飛ばし」で損失を隠すことは、連結決算と時価会計が普及した今となっては、容易ではない。しかし、取締役会の大半が共謀すればいつでも起こりうる不祥事だ。「山一自主廃業」の教訓が色あせることはない。「宴(うたげ)の裏で悪魔が笑っていた」。バブル崩壊後の91年、噴き出した証券不祥事を前にこう語ったのは日興証券元社長の岩崎琢弥氏だ。ほほ笑む悪魔の視線の向こうに山一がいた。(小平龍四郎)

 証言 氏家純一・野村ホールディングス名誉顧問が語る 

 「株価上昇は続かない」米投資家は冷静だった 

 1989年6月、米ニューヨークのノムラ・セキュリティーズ・インターナショナル(米国野村)に社長として赴任した。帰国するまでの7年間はウォール街から日本市場を見ていた。バブル期の日本は地価の高騰をテコに株価が上昇、その結果として資本コストが下がり、米国への投資も拡大させている印象だった。米国買いに突っ走る日本勢を敵視する向きも一般にないわけではなかったが、ウォール街の雰囲気は総じて冷静だった。当時の米国経済は双子の赤字に苦しんでいたから、ジャパンマネーの流入は歓迎すべきことだった。日本の地価と株価の上昇は長続きしないと読み、高く売ったものを安く買い戻せばよいと計算していたのかもしれない。ソニーがコロンビア映画を傘下におさめ三菱地所がロックフェラーセンターを買収すると、ウォール街でも警戒感が募り始めた。日本経済の勢いが止まれば資金が逆流しかねない。その時までに米国の産業界と金融界が復活していないととんでもないことになる、というわけだった。日本は買い手として米国での存在感を高めたが、投資対象としての日本株は米国投資家の関心をあまり引きつけなかった。特にバブルのずっと前から日本企業をこつこつ調査し、長期の視点で買っていた機関投資家はこの時期、大量に日本株を買うことはなかったのではないか。日本のバブルの最盛時に米国野村の日本株チームが潤った記憶はない。買い手としても、日本企業は多くのお金を投じたにもかかわらず、実体経済やビジネスの深い部分に必ずしも入り込むことはできなかった。これは米国で金融機関の経営に長く携わった者としての反省でもある。(談)                    キーワード

・「米国の魂を買った」                         

 1989年秋、三菱地所が米ニューヨーク市マンハッタンの高層ビル群「ロックフェラーセンター」の管理会社買収を発表するや、米国で不満の声が上がった。「石油王」ロックフェラーのビルは、年末に飾られるクリスマスツリーと共に米国人の心象風景の一つ。トランプ大統領も当時「米国は引きちぎられつつある」と語った。結局、2200億円を投じた管理会社は95年に破産、三菱地所は1500億円の特別損失を出し上場来初の赤字に転落した。今も子会社であるその会社はその後「孝行息子」に変身、業績に寄与しているという。・3万8915円日経平均株価の軌跡が描く急勾配の頂、それが平成元年の大納会に付けた「3万8915円」だ。2万円の大台超えからわずか2年10カ月。企業の1株利益の何倍まで買われているかを示すPER(株価収益率)は60倍超。60年分もの利益を先取りしておきながらも、当時の新聞には「次は4万円」の文字が躍った。だが、実際には翌1990年の大発会から株価は下げに転じ、10月には早くも一時2万円を割って半値前後の水準に。その後「失われた20年」を経て、ようやく底を付けたのは2009年の7054円だった。最近、市場関係者が意識しているのが2万2985円の水準だ。3万8915円と7054円の半分、「半値戻し」に位置する。「半値戻しは全値戻し」とされ、ここを超えるとおよそ30年の調整を経て、株価面では「バブルの余波」がようやく終わるといえ。 

・持ち合い 

 企業が取引先や銀行と互いに株式を保有し合うこと。値上がり益や配当など本来の投資の果実を度外視した経営戦略上の行為。旧財閥系の銀行を中心に戦後、始まったとされる。持ち合い分は、議決権を行使しない「もの言わぬ株主」になりがち。日本株保有比率を、持ち合いが多いとみられる「企業+金融機関」と純投資が主目的の「個人+外国人」に分けると、バブル期に圧倒的だった持ち合い比率が低下している様がわかる。  

・飛ばし

 バブル崩壊後の1990年代前半、株価下落があぶり出した、企業と証券業界の悪弊が「飛ばし」と呼ばれる行為だ。株式など有価証券で生じた損失を企業が決算で表面化させずに済むよう、決算期をまたいで一時的に他の企業やファンドに金融商品を「疎開」させる慣行を指す。証券会社が間に入り、決算期の異なる企業間で転売し、決算後に市中金利より高い金利を付けて売却相手から買い戻すケースが一般的だった。多かれ少なかれ、当時の日本の多くの証券会社が手を染めていたが、際だって額が大きく、処理も遅れていたのが「法人の山一」を標榜する山一証券だった。「にぎり」と呼ぶ、利回り保証を付けた上での勧誘行為も多く、飛ばしの行き詰まりと共に、証券会社に対して訴訟を起こす企業が相次いだ。現在では金融商品取引法で禁じられている。

観光客らでにぎわう「ロックフェラーセンター」(ニューヨーク市) 
観光客らでにぎわう「ロックフェラーセンター」(ニューヨーク市)