平成の30年はバブル経済の頂点からの転落の軌跡と重なる。一瞬のまばゆい放光と暗転、その後の年月を覆う長い影。平成経済は日本に何をもたらし、何を奪ったのか――。歴史に刻まれたバブルの足跡をたどり、見つめ直す。

  社員は悪くありません」1997年11月24日。自主廃業を決めた山一証券の野沢正平社長の号泣会見は、決して忘れられない平成史の風景だ。四大証券の一角の破綻は、日本経済が抱えた負の遺産の大きさを印象づけた。なぜ、山一はつぶれたのか。理由を解き明かすために時計の針を平成の始まりに戻す。89年12月29日、東京証券取引所。その年最後の取引の終値で、日経平均株価は3万8915円をつけた。今に至る日経平均の史上最高値だが、当時の市場関係者には単なる通過点だった。「株をまくらに寝正月」。兜町に飛び交ったざれ言が天下太平の雰囲気をよく示す。しかし、市場の内なる陶酔とは裏腹に、海外の視線は冷めていた。米欧の代表的な機関投資家はこの時期、日本への投資を抑え気味にした。グローバルな株式投資に30年余りたずさわってきた米キャピタル・グループのロバート・ラブレス副会長は「日本株は途方もなく割高だった」とふり返る。例えば株価が1株利益の何倍に相当するかを示す株価収益率(PER)を見ると、89年の日本市場は平均で60倍超。対照的に欧米は10倍台だった。異常な株価を支えた要因はいくつか挙げられる。まず、土地の値上がり期待だ。「企業が保有する不動産の含み益まで考慮した実質一株純資産から見れば、日本の株価は割高ではない」。日本証券経済研究所の「日本の株価水準研究グループ」がこんな報告書を発表したのは、88年の秋。提示された「Qレシオ」という考えは株高を正当化する理論として人気を博した。また、株式の所有構造も株価形成に影響を及ぼした。89年当時の日本市場は、自由に取引される株式が全体の約3割と言われた。企業と企業、企業と銀行が株式を相互保有する「持ち合い」が広がったためだ。さらに、88年に日本市場で始まった株価指数先物の取引が89年には外資系証券を中心に活発になり、株価を押し上げた。先物を売って現物株を買う裁定取引の仕組みを理解する日本の市場関係者は、まだ多くはなかった。地価上昇、持ち合い、そして先物取引が共鳴するように醸成した株高。それが日本企業をM&A(合併・買収)に駆り立てた。「米国の魂を買った」と称されたソニーのコロンビア・ピクチャーズ買収や三菱地所のロックフェラーセンター買収は、時代の高揚感を抜きには語れない。旺盛なエクイティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)もバブル期の企業行動を特徴づける。89年のエクイティファイナンス総額は24兆8000億円と、過去最高だった88年をさらに40%強上回った。ファイナンス資金の多くは財テクに回った。90年以降の株価下落で企業の財務が大きく傷み、損失補填などの事件に結びついたのは、歴史の示すところだ。ファイナンスを仕切る証券会社を主幹事という。銀行でいうメインバンクが証券では主幹事だ。調達資金による財テクや増加株式の持ち合いまで指南するなど、当時の企業と主幹事はもたれ合いの関係にあった。この分野で強かったのが山一だ。当時の四大証券には、収益力や規模などの面で「野村、大和、日興、山一」という序列が存在した。しかし、主幹事を務める企業数だけを比べると、山一は野村に次ぐ2位。同社にとって「法人の山一」は死守すべき金看板であり、それが大企業とのなれ合いが続く要因ともなった。バブルが崩壊し、収益力の強い野村などは企業と一時的に対立しても、損失補填などの癒着関係を切ろうと努めた。山一だけが古い関係を引きずり、財テクの損失を「飛ばし」と呼ばれる簿外取引で隠さざるを得なかった。「株価さえ戻れば、何とかなる」。山一首脳がくり返し語った言葉が、今も耳に残る。しかし、その時は訪れず、飛ばしの行きづまりとともに経営は破綻した。山一のような「飛ばし」で損失を隠すことは、連結決算と時価会計が普及した今となっては、容易ではない。しかし、取締役会の大半が共謀すればいつでも起こりうる不祥事だ。「山一自主廃業」の教訓が色あせることはない。「宴(うたげ)の裏で悪魔が笑っていた」。バブル崩壊後の91年、噴き出した証券不祥事を前にこう語ったのは日興証券元社長の岩崎琢弥氏だ。ほほ笑む悪魔の視線の向こうに山一がいた。(小平龍四郎)

 証言 氏家純一・野村ホールディングス名誉顧問が語る 

 「株価上昇は続かない」米投資家は冷静だった 

 1989年6月、米ニューヨークのノムラ・セキュリティーズ・インターナショナル(米国野村)に社長として赴任した。帰国するまでの7年間はウォール街から日本市場を見ていた。バブル期の日本は地価の高騰をテコに株価が上昇、その結果として資本コストが下がり、米国への投資も拡大させている印象だった。米国買いに突っ走る日本勢を敵視する向きも一般にないわけではなかったが、ウォール街の雰囲気は総じて冷静だった。当時の米国経済は双子の赤字に苦しんでいたから、ジャパンマネーの流入は歓迎すべきことだった。日本の地価と株価の上昇は長続きしないと読み、高く売ったものを安く買い戻せばよいと計算していたのかもしれない。ソニーがコロンビア映画を傘下におさめ三菱地所がロックフェラーセンターを買収すると、ウォール街でも警戒感が募り始めた。日本経済の勢いが止まれば資金が逆流しかねない。その時までに米国の産業界と金融界が復活していないととんでもないことになる、というわけだった。日本は買い手として米国での存在感を高めたが、投資対象としての日本株は米国投資家の関心をあまり引きつけなかった。特にバブルのずっと前から日本企業をこつこつ調査し、長期の視点で買っていた機関投資家はこの時期、大量に日本株を買うことはなかったのではないか。日本のバブルの最盛時に米国野村の日本株チームが潤った記憶はない。買い手としても、日本企業は多くのお金を投じたにもかかわらず、実体経済やビジネスの深い部分に必ずしも入り込むことはできなかった。これは米国で金融機関の経営に長く携わった者としての反省でもある。(談)                    キーワード

・「米国の魂を買った」                         

 1989年秋、三菱地所が米ニューヨーク市マンハッタンの高層ビル群「ロックフェラーセンター」の管理会社買収を発表するや、米国で不満の声が上がった。「石油王」ロックフェラーのビルは、年末に飾られるクリスマスツリーと共に米国人の心象風景の一つ。トランプ大統領も当時「米国は引きちぎられつつある」と語った。結局、2200億円を投じた管理会社は95年に破産、三菱地所は1500億円の特別損失を出し上場来初の赤字に転落した。今も子会社であるその会社はその後「孝行息子」に変身、業績に寄与しているという。・3万8915円日経平均株価の軌跡が描く急勾配の頂、それが平成元年の大納会に付けた「3万8915円」だ。2万円の大台超えからわずか2年10カ月。企業の1株利益の何倍まで買われているかを示すPER(株価収益率)は60倍超。60年分もの利益を先取りしておきながらも、当時の新聞には「次は4万円」の文字が躍った。だが、実際には翌1990年の大発会から株価は下げに転じ、10月には早くも一時2万円を割って半値前後の水準に。その後「失われた20年」を経て、ようやく底を付けたのは2009年の7054円だった。最近、市場関係者が意識しているのが2万2985円の水準だ。3万8915円と7054円の半分、「半値戻し」に位置する。「半値戻しは全値戻し」とされ、ここを超えるとおよそ30年の調整を経て、株価面では「バブルの余波」がようやく終わるといえ。 

・持ち合い 

 企業が取引先や銀行と互いに株式を保有し合うこと。値上がり益や配当など本来の投資の果実を度外視した経営戦略上の行為。旧財閥系の銀行を中心に戦後、始まったとされる。持ち合い分は、議決権を行使しない「もの言わぬ株主」になりがち。日本株保有比率を、持ち合いが多いとみられる「企業+金融機関」と純投資が主目的の「個人+外国人」に分けると、バブル期に圧倒的だった持ち合い比率が低下している様がわかる。  

・飛ばし

 バブル崩壊後の1990年代前半、株価下落があぶり出した、企業と証券業界の悪弊が「飛ばし」と呼ばれる行為だ。株式など有価証券で生じた損失を企業が決算で表面化させずに済むよう、決算期をまたいで一時的に他の企業やファンドに金融商品を「疎開」させる慣行を指す。証券会社が間に入り、決算期の異なる企業間で転売し、決算後に市中金利より高い金利を付けて売却相手から買い戻すケースが一般的だった。多かれ少なかれ、当時の日本の多くの証券会社が手を染めていたが、際だって額が大きく、処理も遅れていたのが「法人の山一」を標榜する山一証券だった。「にぎり」と呼ぶ、利回り保証を付けた上での勧誘行為も多く、飛ばしの行き詰まりと共に、証券会社に対して訴訟を起こす企業が相次いだ。現在では金融商品取引法で禁じられている。

観光客らでにぎわう「ロックフェラーセンター」(ニューヨーク市) 
観光客らでにぎわう「ロックフェラーセンター」(ニューヨーク市)